経営とビジネスの現場で、日本人の「思考」と「行動」に変化を起こす!「マネジメント実務」に変化を起こす!

コラム

人前で大声で叱ってしまいがちな日本人

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第25回

人前で大声で叱ってしまいがちな日本人

 

海外拠点において、日本人が期待するとおりに現地社員が考えて行動してくれる状態を作ることは大変難しいです。日本人のように同調してくれる、あるいは、あまり深く考えずに適合してくれるような従順な現地社員はほとんどいないのです。

 

現地社員に期待すること、学んでもらいたいことは、都度、適切な言葉で丁寧にわかりやすく説明し、正しく理解してもらわなければいけません。通常、現地社員の理解がすすまないのは、現地社員の能力が低いというよりも、現地社員が日本人と同じようなバックグラウンドをもっていないことが大きな原因です。ですから、期待を伝える日本人が、相手が日本人の場合と比べて、より具体的に、より論理的に、そして、より時間をかけて丁寧に説明しなければ、現地社員は日本人から期待されている内容を正しく理解することができないのです。

 

しかし、この点、日本人は本能的に「面倒くさい!」と感じてしまいます。でも、「それではいけない!」と気持ちを切り替えて説明を始めると、丁寧に説明する経験が少ないため、なんと、説明を重ねる過程で自分の「語彙(=ボキャブラリー)」を早々と使い果たしてしまい、最後は、説明に必要な「適切な言葉」を自分の中で見つけることができなくなってしまうのです!

 

現地社員が同じ失敗を繰り返しているのを見て指導しようとしたときに「適切な言葉」が見つからなくなってしまうと、どのようなことが起きるでしょうか?無意識のうちにイライラ感が大きくなり感情的になってしまい、「こんなこともわからんのか!」「なんど言ったらわかるんだ!」「いいかげんにしろ!」というような表現で語気を荒げてしまうことになるのです。さらに、感情が抑えられなくなると、「アホ」「バカ」という言葉も混じってしまいます。しかも、周囲に他の社員がいてもお構いなく「叫んで」しまうのです。叫んでいる本人は「後でフォローすればよい」と思っているかもしれませんが、現実は、「感情的な人」というネガティブな印象を相手の現地社員だけでなく周囲の人にも強く与えることになり、リカバリーは大変難しくなるのが海外での実情です。

 

「人前で叱られることで恥をかかせ、二度と恥をかきたくない気持ちにさせる」「周囲の人への戒めや警告の意味を込めている」ことから、過去、日本の企業社会では、「人前で大声で叱る」行動はある程度受け入れられてきた歴史がありますが、今の時代は日本でも好ましくないでしょう。

 

海外は日本と違って「個人」に立脚した社会です。ですから、個人の「尊厳(=プライドや面子)」は日本人の想像を超えて大切にされています。この個人の「尊厳」が傷つけられることはひとりの人間にとって一大事なのです。場合によっては「パワハラ」と受け止められてしまうことにもつながるのです。

 

では、このような深刻な事態を招かないために日本人はどうすればよいのでしょう?王道のテクニックは、「人前ではなく1対1の環境で叱る」ことになります。確かに、場所を会議室に移し1対1の環境に身をおけば、多少は冷静になることができると思います。しかし、「適切な言葉」が見つからなければ、結局は個室で「叫んで」しまい、指導したい「内容」を正しく理解してもらうことは困難になります。

 

人前であろうと1対1の環境であろうと、「感情的」にならないためには、「内容」を伝えるための「適切な言葉」を見つけることが鍵になるのです。「現地社員は日本人と同じバックグラウンドがないので正しく理解できなくて当然」という前提に立ち、日本人は自分にとって当たり前ないろんなことを丁寧に説明する習慣を身につけることが大切です。実は、この習慣こそが「人前で大声で叱る行動」を自分の中から取り除くための本質的な解決策なのです!

海外拠点での「低離職率」は好ましいことか?

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第24回

海外拠点での「低離職率」は好ましいことか?

 

 日本企業の海外拠点で「日本と違って離職者が多くて困ってるんです・・・」という日本人経営層の声をよく聞きます。具体的には、入社後2年~3年仕事をしてようやく育ち、将来を期待できそうだなと思った人材が辞めていくことが起きているのです。ポテンシャルが高そうな人材が「数年で」辞めていくことは企業にとって好ましいことではありません。

 

一方で、「進出以来10年経ち離職者が減ってやっと落ち着いてきたんです・・・」と胸をなでおろしている経営層の日本人もいます。日本の企業社会では、終身雇用的慣行が形を変えながらも大企業を中心に未だ根強く定着し、「離職率が高いことが悪く、離職率が低いことが良い」という固定観念があることから、この日本的感覚でホッとしているようです。

 

この経営層の日本人に「離職率が減ってきたようですが、それでも辞めている少数の人はどんな人ですか?」と聞くと、「数は少ないけど、実は優秀だなと感じている人材なんです・・・」という歯切れの悪い返事です。

「定着している人材の中で辞めてもらってもいいと感じている人はいますか?」

「はい・・・そう言われれば確かにそこそこの数いますね・・・、でも、私も他の日本人駐在員もそうですが、社員を辞めさせることを日本で経験したことがないので、なかなか難しくて・・・新陳代謝はやっぱり必要だと思うんですけどね・・・」

「この点、日本本社から何かアドバイスはありますか?」

「はっきりとしたことはありませんが、離職率が高かった頃は本社の役員はあまりいい顔をしていなかったですね・・・何かマネジメントに問題があるのでは?というようなチクッとした言葉を何度かもらいました・・・。最近、ある日本人が部下(=現地人材)の行動がひどいので辞めさせようとしたら、その部下が本社にメールを送って上司の行動を批判したんです。すると、本社の役員が出張してきて、彼が注意されたんですよ・・・結局、辞めさせることもできなかったみたいです・・・」

 

海外拠点において「日本の常識的感覚」から離職率が上がることを怖れる日本人は案外多いです。拠点の立ち上げ時期は様々な混乱を伴いますので、立ち上げ自体が優先されて離職率はあまり目立たないのですが、会社の歴史が長くなり、規模が拡大していくにつれ、離職率の高低が本社からも着目されるようになるのが一般的です。他方、終身雇用的慣行のない海外拠点で、経済合理性の高い経営と人事マネジメントを思い切って実行しようとしたら、本社経営層から「睨まれてしまう」ので、不本意ながら行動を起こさず“静かに”している(本来優秀な)日本人も少なからずいるのです。

 

実際のところ、ポテンシャルが高い人材が辞め、ポテンシャルが低い人材が滞留している日本企業の海外拠点は案外多いです。にわとりが先か卵が先かの話しですが、ポテンシャルの低い人材が滞留している状態を容認している組織をポテンシャルの高い人材が敬遠し離れていっているのが実情だと思います。

 

終身雇用的慣行がない諸外国では、全社的な離職率の高低でマネジメントの質を判断することは適切ではありません。日本と違って経済合理性を追求できるマネジメント環境の下では、「ポテンシャルが高く辞めてもらいたくない人材が5年から10年定着し、ポテンシャルが低い人材が滞留せず退職し、人材の新陳代謝が適度に起きている」状態が好ましいのです。そして、海外拠点の日本人マネジメントがこの状態を実現するための打ち手を考え実行することが重要になるのです。

 

終身雇用的慣行を前提とした「日本の常識的感覚」で低離職率の状態にこだわりすぎると、経営効率を低下させるだけでなく、組織体質の「ぬるま湯化」を招き、次の経営陣に負の遺産を引き継いでいくことになってしまうのです。

「会社」をアピールすれば優秀な現地人材を採用できる?

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第23回

「会社」をアピールすれば優秀な現地人材を採用できる?

 

 日本企業の海外拠点で経営層の日本人から「現地人材のレベルが低くて困っている」という相談を受けます。具体的には、言われたことしかできない、提案できない、何度も同じミスをする、ことがその理由です。実際のところ、現地人材を十分に育てることができていない実情もありますが、現地人材のレベルが本当に低い場合もあります。

 

日本でも海外でも、優秀な人材を採用できるかどうかは市場での人材マーケティング次第です。売り手が「企業」で、買い手が市場の「人材」だとすると、売り手の売りたい「コンテンツ(=内容)」が買い手の「ニーズ」に合ったときに、はじめて「縁」が生まれます。

 

日本ではバブル崩壊後、終身雇用の「形」は変化してきましたが、その慣行は企業社会の中で根強く残っています。そのため、労働市場の流動性は依然として低く、大企業を中心に一般的なビジネスパーソンは「ひとつの会社で長く働く」傾向が強いですし、それを「良し」とする社会的通念もあります。景気が低迷し、雇用不安が高まると、日本の大企業は雇用の維持と安定を社会から一層求められ、一方で、主要大学の学生をはじめとする市場の人材は、安定性の高い大企業に一層目が向くことになります。そして、多くの人材は「自分が何をやりたいのか?」よりも「どの会社に入るか?」を探求することになりますので、企業にとっての人材マーケティングツールは会社の「安定性」「認知度」「成長性」になるのです。

 

他方、海外では、そもそも終身雇用的慣行はありませんので、労働市場の流動性は高いです。特に経済成長の著しい中国、アジアの新興国では、市場の人材にとって重要なことは、「企業に雇用され続ける」ことではなく、「自分の価値を高める」ことです。自分の価値をより高めることができそうな場や機会を求め転職することはごく一般的なことですから、転職には社会的にもネガティブなイメージはありません。このような社会で企業が優秀な人材を惹きつけるためには、自社の「人事マネジメント」を人材マーケティングツールとして活用することが重要になります。特に、評価と報酬を決める「人事制度」とスキルアップのための「教育制度や教育機会」が市場の人材の大きな関心になります。

 

このような違いがあるにもかかわらず、日本企業の海外拠点での人材マーケティングは、多くの場合、日本社会でのツールで勝負に出ているのが現状なのです。「就社」ではなく「就職」しようとしている現地市場の人材に対して「会社」をアピールしても、向上心にあふれた優秀な人材は振り向いてくれません。逆に、雇用され続けることを好む、安定志向の強い人材、つまり、どちらかというとあまり優秀ではない人材が集まってくることになってしまうのです。日本ではこのような人材の多くは知的レベルとしては優秀層ですが、海外では決してそうとは限りません。海外拠点での人材マーケティングの現状を見る限り、海外の日系企業で働く現地人材のレベルが低くなってしまっても仕方ありませんし、当然の帰結ともいえるのです。日本の常識をそのまま海外に持ち込むと、想定外の事態を招くことになってしまうのです。

 

では、現地社会の優秀人材を採用するために、単純に人材マーケティングのツールを変えて、発信するコンテンツを変えればよいか?というと必ずしもそれが自社の求める状態を実現する手段になりえないケースもあります。海外拠点の日本人幹部に「この国の優秀人材が御社で本当に必要なのですか?」と聞くと、必ずしも回答が「はい」ではない場合があります。「優秀人材」という言葉に振り回されることなく、組織の様々な階層や役職において、どんな仕事をしてどんな成果をあげて欲しいのか?だから、どんな人材を求めるのか?を今一度整理し、有効性の高い人材マーケティングを実行することが大切だと思います。

日本人は時間を大切にしている?

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第22回

日本人は時間を大切にしている?

 

日本の社会では、「時間を守らない人は信用が低い」という固定観念があります。そのため、日本人の間ではプライベートでも仕事でも、他人と約束した「時間(=物事を開始する時間)を守る」行動習慣が定着しています。約束に遅れそうになると、信用を失いたくない意識が働き、必ず相手に連絡を入れてお詫びします。このように約束した「始まりの」時間を守ることは、自分の信用に関わることもでもあり、日本人同士では大変大切なことです。

海外ではどうでしょうか? そもそも、日本と同じような時間に関わる社会的な固定観念はないといっても過言ではありません。日本と比べて交通機関が時間に正確でないことはもとより、家庭でも親が子供に対して「始まりの」時間を守ることの大切さを優先して教育しているわけでもありません。そのため、外国人は「始まりの」時間に遅れても、自分の信用を失うリスク意識が低いだけでなく、相手の時間をムダにしてしまう罪悪感すら薄いのが実情です。

日本企業の海外拠点で、日本人駐在員が主催する会議の開始時間になっても出席予定の現地社員がその場にいないと、まず、日本人は本能的に「けしからん!」と感じます。そう感じる具体的な理由は、「この人はルーズだ」「この人は自分勝手だ」「この人は信用に欠ける」「この人は時間を大切にする感覚が薄い」ということになります。

次に、開始時間を過ぎると日本人の表情が徐々に強張り、眉間にしわが寄り始め、イライラが始まります。自分たちにとって当たり前でないことが目の前で起きつつあるからです。そして、ほとんどの場合、遅れてきた現地社員を強面で睨み、きつい言葉で叱り、他の参加者の時間をムダにしたことについての謝罪を要求します。その結果、その場の雰囲気はものすごく凍りついてしまいます。さらに、遅れた人に「なぜ遅れたのか?」と遅れた理由の説明を求め質問します。「前の打ち合わせが延びたからです」「急ぎで対処しなければいけないことがあったからです」「渋滞につかまってしまったからです」などの答えが返ってくると、「それはいいわけだ!いいわけはいらない!謝ればいい!」という具合にイライラは絶頂に達してしまいます。遅れた側は「聞かれたからきちんと答えただけなのに…」と複雑な気持ちになります。このような「空気」になると、その後しばらくは、会議室に集まっている全員の脳の働きが停止してしまうことになり、会議の「質」に影響が出てしまうのです。

多くの外国人は、日本人は「形」にこだわり過ぎて「内容」を軽視する傾向があると感じています。「会議の始まりの時間には厳しいけど、なぜ会議の内容にはこだわらないのだろう?」という疑問があるのです。日本人は「始まりの時間を守る」ことに厳しいが「時間を大切にする」という感覚が薄いと受け止められているのです。

日本人にとって「時間を大切にする」ためには「時間を守る」ことが優先されます。しかし、外国人にとって「時間を大切にする」ためには「共有するお互いの時間を有意義なものにする」ことが優先されるのです。「時間を大切にする」ということは、一緒に過ごした時間の中で「理解し合えてよかった」「次にやるべきことがはっきりしてよかった」とお互いに感じることができることを意味しているのです。

会議の中で対等な議論ができないのであれば、外国人にとって参加する意味は薄れます。最初から日本人駐在員の間で結論が決まっていて、形式的に賛同意見を求められるのもあまり心地よいものではありません。また、何が決まったのかが不明なまま会議を終えてしまうと、それこそ消化不良となり有意義な時間にはなりません。さらに、会議では何も決まっていないのに、その後、気がつくと、日本人駐在員の間だけで結論が出されていたことになれば最悪です。実際のところ、案外このようなことは海外拠点だけでなく、本社を中心としたクロスカントリーの電話会議、テレビ会議でも起きているのが現実なのです。

 

「会社のため」を優先する行動の呪縛を解く!?

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第21回

「会社のため」を優先する行動の呪縛を解く!?

 

日本の企業社会では「会社のため」に働くことが「自分のため」に働くことよりも優先され、通常、それが何の疑いもなく常識的な行動と見なされています。素朴な問いかけですが、なぜ、日本人は「会社のため」を優先するようになったのでしょうか?

答えは、バブル崩壊までの右肩上がりの時代に一般慣行として定着した終身雇用が「会社のため」を優先する行動を求めてきたのです。終身雇用的慣行のもとでは、本質的に、会社は社員に「(定年までの)雇用の保障」をGIVEし、社員から「長期貢献」と「(やりたいことができない場合の)辛抱や我慢」をTAKEすることになります。このため、日本人は会社に入社すると同時に、会社に対する忠誠心と個人を犠牲にしても会社に尽くす行動を求められるのですが、このGIVE&TAKEの関係のもとでは、大変理にかなったことといえます。

しかし一方で、バブル崩壊後は会社が社員にGIVEしてきた「雇用の保障」の形が崩れてきました。正社員の給与が定年まで上がり続けることはなくなりましたし、定年を待たずして早期退職優遇制度などのリストラが実行される確率も高くなりました。つまり、従来のGIVEが不安定になったのです。にもかかわらず、多くの日本人サラリーパーソンが「会社のため」を優先して行動し続けることは、世界のレンズから見ると大変不思議なことで、日本人がお人よしに見えてしまっても仕方ありません。

海外では、会社は社員に「役職」と「(それに相応しい)報酬」をGIVEし、社員からは「成果」をTAKEします。海外の会社が社員に「雇用の保障」をGIVEすることはまずありません。ですから、社員は「会社のため」に忠誠心をもって働くことを優先する必要がないという理屈になるのです。

中国では、改革開放後、たくさんの会社が設立されましたが、同時にたくさんの会社が倒産しています。中国の情報統制上、この事実に関わる中国メディアの報道は少ないですが、実際のところ、中国人は肌身に感じているのです。そのため、中国の家庭では、親は子供に「会社はいつ倒産するかわからないので信用してはいけません」「自分を信じて生きていきなさい」「自分の市場価値を上げて自分を守りなさい」と教育します。もちろん、国も信じていないと思います。苦笑。さらに、日本のような強い解雇規制を伴う終身雇用的慣行もありません。したがって、中国人は「自分のため」に働くことを優先し、会社は自分の価値を上げるためのひとつの場にしかすぎないと認識します。この行動原則は、実は、中国だけでなく米国をはじめとする世界のほとんどの国で「常識的」なのです。

中国の日系企業で現場の中国人同士が責任を押し付け合い、お互いに協力して問題を解決しようとしないことがよくあります。このとき、日本人が中国人の当事者たちに「会社のため」という考え方もって協力して問題を解決しないと顧客に迷惑がかかるでしょ?!と注意しても中国人にはなかなか響きません。仕事は上司との関係の中で「自分のため」にすることが常識なのでピンとこないのです。したがって、日本人はこのような行動原則の根本的な「違い」を正しく理解したうえで、日本とは異なる考え方と行動で中国人に問題解決をさせなければいけないのです。

昨年のサッカーアジアカップで日本代表(ザックジャパン)が優勝した直後、本田選手がインタビューを受けたときのことです。「いやー、日本のために、ザックジャパンのために優勝できてよかったですね!一言頂けますか?」の質問に、3秒ほど考えた後、「・・・というよりも、自分のために勝ててよかったです!」と彼は素直に答えました。「自分のため」がタブー視されている日本の社会では「印象の悪い」回答です。しかし、この答えは本モノのグローバル人材ならではの答えだと思います。表面的に「チームのため」という“受けのよい”表現をする選手でもプロ意識の高い選手であれば根本には強い「自分のため」という考え方が強くあるのです。日本のビジネス界においても、組織人として表向きは「組織のため」という表現をしても、「自分のため」の目標を決め自分の価値を上げる努力をする日本人こそが、外国人と感度を合わせて互角に仕事ができるグローバル人材だと思います。

日本人の集団力は世界一か?

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第20回

日本人の集団力は世界一か?

 

日本人の集団力はお家芸(=最も得意とすること)であるとはいえますが、世界で一番とはいえません。仮に、集団力とは同調力である、と定義すれば、日本人の集団力は世界一でしょう。笑。

 

かつて、日本企業の集団力が世界市場を席巻した時代があります。バブル崩壊までのいわゆる右肩上がりの時代です。バブル最盛期の80年代後半は、まさにJapan As No.1でした。経済の勢いがあったのは事実ですが、それ以上に、日本企業で働く人のメンタリティーと行動による集団力が日本企業を“世界一”に導いていたのです。私はその集団力を「世界を驚かせた摩訶不思議な集団力」とよんでいます。世界で類稀な「定年まで給与が上がり続けることを前提とした終身雇用」「年功序列」という慣行、そして、「会社と社員は運命共同体である」という思想が作る“不自然”で半ば“宗教的な”「安心感」がとてつもないパワーをもつ不思議な集団力を生み出し、日本企業を“世界一”に押し上げたのです。

 

バブル崩壊後、多くの日本企業は失速し、約20年間、輝く出口を探しながら迷走してきました。過去の成功は人の記憶と心に深く残り続け、当時の集団力の「前提」が崩れた今でもまだ、「(あの時の)集団力で勝負できる」と考える人が少なからずいるのは驚きです。この考え方では世界で戦うことは難しいです。

 

どんな組織でも集団での成果を追求している限り、そのための集団力は必要になります。では、世界で戦う「集団力」をもつうえで、今、何が決定的に欠けているのでしょうか?

答えは「個人力」です。日本企業で働く人、スポーツ選手に関わらず、ひとりひとりのレベルで「個人力」を強めなければいけないのです。そして、強い「個人力」をベースとした「集団力」を最大化できるリーダーを作らなければいけないのです。

 

女子日本代表(=なでしこジャパン)はワールドカップで世界一という快挙を達成しました。男子日本代表(=現ザックジャパン)はアジアカップでは優勝しましたが、世界のレベルにはあと一歩です。サッカーの「集団力」は着実に世界レベルに近づいています。強い個人力ベースの集団を率いるリーダーがいれば、残りの課題はひとりひとりの選手の「個人力」強化でしょう。

 

日本の企業社会において、個人力が低い人たちが集まった組織には協調性や同調性が高い人が多いため、組織を「まとめる」ことはさほど難しくありません。したがって、このような組織をまとめる人は、「リーダー」ではなく「コーディネーター(=調整役)」で十分なのです。ただ、よほどの偶然性や希少性が伴わない限り、このような組織の集団力は世界では通用しません。

 

他方、個人力が高い人たちが集まった組織には尖った人が多く、リーダーの仕事は大変です。「君はどう思う?」「じゃあ、あなたはどうですか?」をリーダーが繰り返していては、自己主張の嵐が吹き荒れ結論が出ません。このような組織では、リーダーが方針や考えを明確に表現し、それについてひとりひとりが自分の意見を言い、お互いにとことん議論し、最後はリーダーが判断して決める、という行動が習慣化されているのです。リーダーと合わずに組織を去る人もいますが、このような組織で育った人には個人力があるので他の組織でも十分生きていくことができるのです。

 

日本の企業社会では、集団力は尊ばれますが、通常、「強い個人力」は自己の押し出しが強いことから「自己中心」の代名詞のもとでタブー視されています。その結果、人は「空気」を読んで「空気」に支配されるようになり、多くの人は言葉と自己表現を失っていくとともに、所属組織に「命」を預けてしまうことになってしまうのです。

 

世界で戦うためには、知識、知恵、技術に裏付けられた自信、そして、生命力を伴った個人力が求められることに「気づく」ことこそが、グローバル人材になるための第一歩だといえます。

自己表現する(2)

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第19回

自己表現する(2)

 

現在の「和」の解釈が生む「安堵感」V.S.「心の葛藤」

“和を以て貴しとなす”。当時の「和」の解釈(=先月号を参照)と大きく異なり、現在は、「角(カド)を立てず皆と仲良くする」「空気を読んで和を乱さないようにする」「自分の意見を飲みこんで(=殺して)集団の総意や流れに同調し従う」という解釈が一般的です。

その結果、日本企業では、自分を押しださず周囲に同調する行動をとることに「安心感」「安堵感」を抱き、そもそも人間として“不自然な”行動をとることが生きていく術であると信じて疑わない社員の数がそもそも多くなる傾向があります。

雇用不安が深刻化する最近では、日本の大学のキャリア教育でも、今まで以上に企業に好まれる学生創りに焦点が当たり、「周囲に同調することを恥じない」人材育成が基本スタンスになりがちです。

一方で、新卒で入社してからの“一時期”、ひとりの人間として「心の葛藤」を抱えてしまう若手社員が少なからず存在することは皮肉な事実といえます。入社した会社の組織の中では、自然に考えて不思議に感じること、理不尽だと感じること、そして、誰もが疑わない黙示的規範のようなことがたくさんあります。当然のことながら、感覚がまだ自然な多くの若手社員は、それらを受け入れることに違和感を抱きます。しかし、学生時代をとおして自分の見方や考えを率直に表現するための「自己表現力」を鍛えていないため、質問や議論をとおしてこの違和感をなかなか解消することができません。仮に、表現力の高い若手社員が違和感を解消する行動をとっても、周囲の古株社員の表現力が低いため会話が噛み合わないケースも多くあります。その結果、「このままで本当にいいのだろうか?」と最初の数年悩んでしまうことになるのです。

 

3つの人材タイプ

日本企業で働く若手社員は、このような「心の葛藤」の時期を経て徐々に3つのタイプの人材に分かれていきます。「2・6・2の原則」では、①が6割、②と③が2割というイメージです。

①   感覚が麻痺していく人材

「会社に雇用され続ける」ことが職業人生の大きな動機になる人材です。角を立てず周囲に同調することに心地よさを感じ、徐々に若い頃に感じた素直な「心の葛藤」を「若気の至り」「未熟さ」という言葉で消去していくことになります。

②   同調し同化しない人材

「(されど)自分らしさを失わずに生きる」ことが職業人生の大きな動機になる人材です。同調よりも自分の考えや意見を率直に表現することに重きを置くことになりますので、社内では「変わった奴」というレッテルを貼られやすくなります。あるいは、社内で“損”をしながら生きていくよりも社外に自己実現の場を求め会社を去る人材も一部含まれます。

③   器用に自分を押しだす人材

「会社の中で役職を昇りつめる」ことが職業人生の大きな動機になる人材です。ほとんどのサラリーマンが一度はこの動機を持つことになりますが、その多くは徐々に①のタイプに“静かに”転じていくのが実状です。このタイプの人材は、周囲の人から「行動が姑息だ」というような印象をもたれる“瞬間”もあります。しかし、「上昇志向」を動機に、押し出し、引き際、攻めどころ、守りどころなどの「状況判断力」が優れていることが、昇進という結果の事実につながっていくのです。

 

海外で活躍できる人材タイプは?

さて、このような3つのタイプの人材が海外拠点に派遣された場合、活躍できる人材はどのタイプでしょうか?答えは、①②③全てのタイプの中にいます。外国人の感覚に最も近く、対等に対話ができそうな人材は②のタイプですが、本社で「変人」扱いされ心が屈折して偏屈になっていないことが海外で活躍できる条件となるでしょう。①と③のタイプは「現在の「和」の解釈にもとづく思考と行動は海外ではうまく機能しないのだ」ということにハッと「気づく」ことが条件になります。③のタイプはそもそも「上昇志向」と「状況判断力」が優れているため、「気づく」確率が高まりますが、①のタイプは一般的に「気づき」に時間がかかるでしょう。しかし、①のタイプは人口が多いので、その変容に大きく期待したいものです。

 

日本での行動習慣の特徴

日本では「同調すること」は「和を乱さない行動」として認知され、多くの日本人ビジネスパーソンが無意識のうちにこのような行動を習慣として身につけています。会社で優秀とされている③のタイプの人材は機を見計らって器用に自分を押し出しますが、その頻度は低く、さらに、周囲への気遣いが強すぎるため、表現する内容の論理的明快さは必ずしも高いとはいえません。さらに、このタイプが自己表現するときの前提の特徴は「反対されることがほとんどない」ことです。いわゆる「根回し」による結論先にありきの状況を作った上で「賛成票をとりつけるための自己表現」となることが多いのです。従って、出たとこ勝負や乱打戦の議論が始まると途端に発言の少ない物静かな人に化してしまうのです。

 

海外で求められる行動習慣の特徴

一方で、海外拠点では現地人材と対等な対話をとおして仕事をすることが求められます。そのためには、現地に派遣される日本人ビジネスパーソンは日本で仕事をしていた時と異なり、自分の考えや意見を適切に表現しなければいけません。また、自己表現する頻度も高く、内容も論理的に明快にする必要があります。日本での行動原則が「同調」ですので、そもそも日本人ビジネスパーソンの自己表現力の質は決して高いとはいえません。この事実と実態を踏まえて、日本人ビジネスパーソンは海外に派遣されることが決まった段階、あるいは、それ以前から、「自己表現」の習慣を身につけるべく準備しておくことが大切です。

さらに、海外では、自己表現するときの前提が日本人同士の場合と異なり、「賛成されることもあれば反対されることもある」に変わります。いざという時、ここぞという時に反対されることに慣れていない日本人ビジネスパーソンにとって、この前提に立つことは大変大きなチャレンジになります。場合によっては恐怖感を抱くことにすらなります。

海外では、どれだけ適切に自己表現できたか?様々な質問に対してどれだけ適切に回答し説得できたか?多様な考えや意見を引き出し、そして、とりまとめ、どれだけ納得感の高い合意を形成できたか?というようなことがリーダーとしてリスペクトされるかどうかの決め手になるのです。

 

グローバル人材教育の根本的な足枷

そもそも、日本人は他国の人と比べて宗教、人種、民族、言語の点で客観的に「同質性」が高いです。そのため、多文化対応力がどうしても低くなってしまうのですが、現在の「和」の解釈は、日本人の「思考と行動」の点においても結果的に「同質性」を高めてしまうことになってしまいます。日本の企業社会でグローバル人材教育が本質的になかなか前進しない大きな原因は、現在の「和」の解釈にあるといえると思います。

自己表現する(1)

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第18回

自己表現する(1)

 

聖徳太子の本来の教え

“和を以て貴しとなす”。今から1400年以上前の604年に制定された17条憲法の第1条冒頭にある聖徳太子の言葉です。

現在の日本社会では、通常、この言葉は、「角(カド)を立てず皆と仲良くする」「空気を読んで和を乱さないようにする」「自分の意見を飲みこんで(=殺して)集団の総意や流れに同調し従う」というような「行動」を意味します。さらに、このような行動が日本人的な行動であり、また、美徳であるとさえ考えられています。

しかし、この言葉が初めて使われた当時、本来の意味は現在の解釈とは随分異なっていました。

当時、この言葉は、「そもそも人間は派閥など排他的な集団を作りやすい。その結果、偏った見方や考え方にこだわることになってしまう。これでは全体として理にかなった結論を導き出すことが難しくなる。従って、道理にかなった合意を形成するためには、ひとりひとりがお互いに自由に意見を表現し、話し合いをすることが大変重要である」という意味でした。

現在と当時では、「和」の解釈が違うのです。現在は「集団の総意や流れに従い同調すること」、当時は「私的なこだわりや偏見を捨て、公平・公正に議論すること」です。つまり、当時の「和」とは「和(やわ)らぐ」という意味で、「自分の心で正直に感じたこと考えたことを率直に表現する」という自然の摂理にかなった自然体の行動だったのです。異なる感じ方、考え方をもつ人が集まって自由闊達に議論や討論をし、(皆が賛成できるとは限らないが)結論を導き出し、合意を形成すべきであるという民主主義的な教えであったともいえます。さらに、様々な価値観や考え方をもつ人が一緒に仕事をする上での世界標準的な行動ともいえるのです。

 

バブル崩壊までの経済成長を支えた現在の「和」の解釈

そもそも、“日本人の精神”は当時の「和」の解釈の中に宿っていたはずなのですが、時代の流れの中で、政治、行政、企業社会の都合に合わせて、本来の意味が現在の解釈に変化していったのでしょう。戦後、日本は所得倍増計画の大方針のもと、欧米に追い付け追い越せのスローガンを掲げ、経済復興を見事に成し遂げました。このプロセスでは、強いリーダーの下での集団力が不可欠でした。「集団の総意や流れに同調し従う」という現在の「和」の解釈は、この集団力を強める手段として大変有効だったのです。実際のところ、“和を以て貴しとなす”という言葉と現在の解釈は、家庭教育、学校教育、企業教育の中でしっかりと浸透し、バブル崩壊までの目覚ましい経済成長を支えてきたといってもよいでしょう。

 

不確定要素が多い時代こそ、本来の「和」の解釈に回帰すべし

ここでよく考えなければいけないのは、時代の流れです。ざっくり大きく2つに分けると、バブル崩壊前と、バブル崩壊後からリーマンショック、東日本大震災を含めた現在までの2つです。

バブル崩壊前までは経済や企業社会に勢いがありましたので、「大勢や集団の流れに同調する」行動をとっていれば、個人の雇用や収入は守られてきました。当時、終身雇用と年功序列が経営の基盤で、会社と社員は「運命共同体」であるという考え方が一般的でした。この「大前提」のもと、個を殺して集団に同調していれば、結果的に個人の利益は十分保障されていたのです。その「安心感」こそが、当時、世界の人を驚かせ恐れさせた摩訶不思議な集団力を生み出し、事実、日本企業を世界の勝ち組に導いたのです。

しかし、バブル崩壊後から現在に至るまでは、政治、行政に加え、多くの企業も“行き先”を見失って迷走を続け、未だ、夢や希望のある出口を見つけることができない状況が続いています。もちろん、今後の先行きも全く不透明といってよいでしょう。幸い、終身雇用という慣行は日本の大企業を中心に未だ存続していますが、“リストラ”という言葉が定着しているとおり、その「形」は既に大きく変化してきました。収入の右肩上がりはさることながらその安定的確保さえ全社員に対して保障が難しいのが企業の台所事情の実態でしょう。さらに、バブル崩壊前までの社員の「安心感」も大きく薄れ、世界に誇る“お家芸”であった当時の集団力はすっかり陰りを帯びています。

このように不確定要素に溢れる状況下では、特定の集団や組織に依存し同調する行動は大変危険です。ひとりひとりが「自分で考えたことを率直に表現する」行動を強め、“生きた”議論をすることが大切なのです。政治家も官僚も経営者もビジネスパーソンも、“和を以て貴しとなす”の本来の意味に回帰し、遠い昔の“日本人の精神”を取り戻すことが今、とても重要だと思います。

 

ベースとなる個人力を強める

追い風が吹いている時は、長いものに巻かれながらその風に乗るのも心地よいひとつの方法です。一方で、逆風が吹いている時、出口が見えない不透明感の高い時は、ひとりひとりが地に足をつけて、自分で情報を集め選択し、自分の考えを明確にして表現し行動しなければ前進することは難しいです。また、他人と率直に議論できなければ、偏った考え方にこだわることになり、視界が広がらず、結果、突破口が見つからず前進できなくなります。周囲の人が少しでも前進しているとすると、いつまでも立ち止まっていることは、事実上、相対的に後退を意味することになります。

つまり、時代の流れの中では、集団力が効果的な時もあれば、ひとりひとりの個人力が強く求められる時もあるのです。ただ、本来、集団力のベースは個人力でなければおかしいので、ひとりひとりが個人力を磨き強めることはどんな時代にも求められるのです。常日頃、ものの見方や考え方、行動を鍛えている人こそが、どんな時代でも“本物の”強さを発揮することができるのです。

 

 

評価する「基準」をマネジメントする(2)

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第17回

評価する「基準」をマネジメントする(その2)

 

今月は、多文化環境で、評価する「基準」をマネジメントするために、日本人マネジメントが新しく習慣として身につけたほうがよい筋のよい思考と行動についてお話します。

 

説明できる「勘」 V.S .説明できない「勘」

上司が「究極の勘」で部下を評価した場合は、相手にとって納得感のある説明をすることができますが、「いいかげんな勘」の場合は、そのレベルの説明をすることが難しいです。「究極の勘」とは、具体的に言葉で表現することが面倒くさいため敢えて説明せず感覚的に漠と判断しているだけで、説明を求められたら論理的にそれなりの説明ができるものです。一方で、「いいかげんな勘」とは、個人的な好き嫌いの感情、思いこみ、偏見などが影響しているため、説明する側にためらいがあり、適切な説明には至らないものです。

多くの日本企業では、目標管理制度を導入しても「基準」を決める思考と行動が停止しやすく、さらに、目標管理以外の「基準」も決して明確ではないのですが、最終評価や人材の登用には妥当性があるという“奇妙な”現象が起きています。文字とおり説明が大変難しい現象なのですが、「評価する然るべき人」が目標達成度とそれ以外の要素を含め、「究極の勘」で総合的に、あるいは、逆算的に判断していると考えるのが日本企業での評価実務の実態に合っているのだと思います。

しかし、海外拠点や日本本社で外国人をマネージし、多文化環境のもとでリーダーシップを発揮するためには、相手が日本人の場合と異なり、感覚的な漠とした判断を続けるのではなく、「究極の勘」を面倒くさがらず文字と言葉できちんと表現する新しい思考・行動習慣を身につけたほうがよいのです。

 

考え抜き表現する

まず、海外拠点あるいは日本本社で外国人部下を持つ立場に立てば、自分が「評価する然るべき人」であると認識することが必要です。次に、突き詰めた勘である「究極の勘」を裏付ける「基準」を頭の中から引き出しノートで整理することが大切です。会社として固定的に設定している「行動評価基準」と異なり、特に毎年、期の初めに部下と話しあって合意しなければいけない「目標」は、結果の数字や状態、そのための有効手段や活動について、まず上司として自分で考え抜くことが重要です。そして、相手に論理的にわかりやすく説明ができるレベルまでノートで整理を繰り返すことが大切です。担当する部門や組織は、必ずしも過去に経験した分野だけとは限らず、未経験分野を任されることもあります。ただ、上司の立場に立つと、経験の有無に関わらず、外国人からは基本的に「判断し決める人」と見られますので、日本で勤務しているときと同じように、いつまでも勉強モードを続けることは許されません。緊張感をもって猛烈に勉強し、脳に汗をかきながらでも考え、表現し、発信する行動が求められるのです。

 

率直に対等に議論する

部下に期待する目標がおおよそノートで整理できたら、それを文字でわかりやすく再整理し、できれば、それを面談前にメールで部下に送り、部下に理解し考える時間を与えておくことがフェアーです。ノートで整理したメモをもとに面談当日に初めて部下に期待することを伝え理解を求めても、なかなか対等な話し合いにならないからです。

面談当日は、改めて説明することから始めるのもよいですし、質問を受けることから始めてもよいでしょう。ポイントは、率直に対等に議論することです。そのためには、やはり上司として考え抜いた上で、部下からのいくつかの質問を想定し、それに対する納得感ある答えを用意しておくことがベターです。もちろん、想定外の質問、意見、主張を受けることもありますが、ひとつひとつ冷静に正しく理解し、誤解を避けながら、合意を形成しなければいけません。

一度合意したら、その後お互いに文句は言わず気持ちを切り替えて目標達成に向けて行動することが重要です。特に外国人部下は「上司が勝手に決めた目標だから・・・」と後でモチベーションを下げがちです。本人の議論能力に問題があるのなら仕方ありませんが、多くの場合は、そもそも率直で対等な議論ができていないことが原因のようです。また、上司も議論の中で不本意に譲歩してしまい、後で、「おまえは自分が達成できそうな甘い目標しか合意しない」と文句を言うケースもあります。本人にはっぱをかけるジョークならよいですが、本気の文句なら上司として判断したことを自己否定することになり、その後の日常的な判断の妥当性にも影響を与えることになりますので要注意です。

 

合意内容(=目的)を見失わない

多くの場合、日常業務をこなしていく時間の流れの中で、人は合意した目標を忘れてしまうことが実に多いのです。通常、合意した後、目標設定シートはPCの中で保存されるか、印刷した紙の形でクリアファイルかフォルダーの中に入れられキャビネットの中で保管されてしまいます。そして、中間面談あるいは期末面談まで一度も見ることがないという人が少なからずいるのです。人間は頭の中で全てを記憶として保存することは無理なので、時間の経過とともに合意した内容を忘れたとしても仕方ありません。それよりも、上司と部下がお互いに「行き先(=目標)」について意識が薄れた状態で日常的なコミュニケーションを続けることの方が大きな問題なのです。

合意した目標、具体的には、結果の数字や状態、それを達成するための有効な手段や活動などは、常に意識できる状態にしておくことが大切です。意識できる状態とは「視覚的に見える状態」です。心理学や広告研究の分野でも実証されているサブリミナル効果が代表的ですが、文字や映像が人間の視覚に飛び込んでくる頻度が高まるほど、それらは潜在意識の領域に深く入り込み、呼び戻しも容易になります。

具体的には、まず、イントラネット上で誰でも合意した目標にアクセスしてそれを閲覧できるようにしておくことが大切です。会社の組織規模にもよりますが、少なくとも部門内の目標は全ての部員が閲覧できる状態になっていることが望ましいです。ただ、掲示サイトにアクセスするというステップを踏まなければ目で確認できませんので、第一画面に「今期目標」というようなバナーを作ってワンクリックでサイトにアクセスできるようにしておくような工夫が必要です。

次に、視覚的に最も効果的なのは、大変原始的ですが、自分が毎日目にする場所で自分の目標、上司の目標、部下の目標を見える状態にしておくことです。ノートに貼っておく。手帳に縮小コピーを挟んでおく。デスクに貼っておく。オフィスのパテションに貼っておく。スクリーンセーバーで流す。などなど様々な工夫例があります。

上司も部下も、自分の記憶力を過信せず視覚的効果を高める工夫をすると、今までと違って、合意内容をお互いに強く意識できる状態を維持できるようになります。その結果、目的を常に視野に入れたコミュニケーションと仕事ができるようになるのです。

評価する「基準」をマネジメントする(1)

世界で活躍する日本人リーダーの現場行動

~思考と行動をアップグレードする~

 

第16回

評価する「基準」をマネジメントする(その1)

 

本質解は、やはり、評価の「基準」にある

日本人でも外国人でも人は仕事をする限り、その成果や貢献度を適切に評価してもらいたいと考え、経営側もそれらを適切に評価したいと考えます。しかし、現実は、なかなかうまくいかず、どんな組織でも評価に不満を持つ人が存在してしています。そのため、「適切な評価」は解決が難しい“永遠の課題”と認識されてしまい、本質的な解決をするための行動が十分にとられていない実態に今まで何度も遭遇し、解決の支援を続けてきました。

長年の問題解決の経験をとおして改めて言えることは、評価に不満を抱く社員の数をゼロにすることは至難の業ですが、少なくし、健全なマネジメントを目指すことは十分可能です。そのためには、やはり、評価の「基準」を明確にしなければいけません。何がどれだけ達成できれば、あるいは、何がどれだけ発揮できればどのような評価になるのかを明確にしなければいけないのです。企業によって、この「何」にあたることについての概念範囲や言葉の使い方に違いがありますが、汎用性のある表現では、「目標」と「行動・能力」の2種類に集約できます。

 

固定的な基準V.S.流動的な基準

「行動・能力」は、会社の戦略やビジネスモデルが大きく変化しない限り、期待している内容を明確に定義すれば、それを基準として一定期間(例・数年)は固定化できる性質を持ち備えています。定義をする人は通常、結成されたプロジェクトの構成メンバーになる人事部門と事業部門の人で、彼らがある時期に定義のための作業を集中的に行うことになります。その際には、個々の役割や業務の特性を十分踏まえて「いかに肌感覚に合う明確な定義ができるか」が最大の課題であり、最重要ポイントとなります。

一方、「目標」の概念には、「結果」だけの場合と、「結果」と「手段・活動」を含む場合の2つのケースがあります。いずれのケースでも、「目標」は、毎年、各職場で上司と部下が話しあって確認しあわなければいけません。つまり、「目標」はその設定に関わる全員の「思考と行動」に深く連動しているのです。会社として一度定義すれば「基準」として固定化できる「行動・能力」とくらべて、「目標」は都度、人と人が直接的に対話を繰り返さなければいけないことから流動的であるといえます。関わる人のコミュニケーション能力が目標の明確性や納得性に大きな影響を与えることになるのです。

 

「目標管理制度を始めたが、なかなかうまく機能していない」という残念な現象が少なからずの日本企業で起きてしまっています。なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか?

 

自然体の経営感覚が薄れている

例えば、資産家でない普通の人が成し遂げたいことがあり、自分のお金で会社を作り社員を雇用したとき、全社員を定年まで雇用することを約束する経営者はまずいないでしょう。会社業績については、もちろん右肩上がりの成長を目指しますが、「現実は良い時もあれば悪い時もある、悪い時にも耐えることができるマネジメントを整えておく」と考えるのが普通のリスク感覚です。さらに、業績向上に向けて、毎年の目標を組織と個人において明確にし、その達成度合いを適切に評価して、優秀な社員、成長見込みのある社員、成長見込みのない社員など、人材を見極めることになります。その結果、役職、役割に見合った報酬も決めることになります。また、このプロセスの中で、社員ひとりひとりの成長を期待し、良いことを褒めたり、改善すべき点を叱ったりすることを繰り返すことにもなりますが、これら一連の行動はまさに“自然体”の経営感覚にもとづいた経営行為なのです。

しかし、残念なことに、いま多くの日本企業では、この“自然体”が失われてしまっているようです。バブル崩壊前の成長期に培われた「差がつかない平等」感覚や「会社と社員のもちつもたれつ」感覚が、バブル崩壊後20年経過した先行き不透明な現在でも、迷いを伴いながら無意識のうちに深く残っているようです。このような感覚の下では、目標管理を始めても社員が本気になれませんし、結果、本来の目標管理がうまく機能しなくなっても仕方ないでしょう。欧米企業、アジア企業と戦って生き残っていくいためには、まずは、自然体の経営感覚を取り戻すことが大切です。

 

目標達成度“以外”で評価が決まる

多くの日本企業での評価実務の実態は、目標達成度“以外”の「要素」で評価が決まっていることです。この「要素」が明確に定義された「行動・能力」であれば問題ないのですが、現実はそうではありません。この「要素」は(評価者の主観や感覚に基づいた)曖昧なものであることが多く、説明が大変難しいのです。さらに、この「要素」の評価が最終評価結果に与える比率が高くなりがちなことが問題を深刻にしているともいえます。

折角、目標管理制度を導入しても、これでは、台無しです。目標設定シートに記述した内容や達成度が結果的に軽視されてしまうのであれば、上司、部下の面談で「形」だけを整えるプロセスは時間のムダと感じる人が増えても仕方ありません。その結果、目標を真剣に考えることに価値を見出すことができる社員が減り、目標管理は自ずと機能停止し、社員の経営感覚が薄らいでしまうのは当然の帰結といえます。

 

「究極の“勘”」の妥当性が高い

大変興味深いのは、(皮肉なことに)日本企業での最終評価結果の妥当性が案外高いことです。日本企業で評価が高い人は、社内の市場原理が働き、人から信頼され任される仕事が増え忙しくなります。存在感も高まります。そして、役割が大きくなり役職も高くなるので、周囲の人からも客観的に認知されやすいのです。周囲の人に「えっ、なんであの人が評価されているの?」と本気で疑問を抱かせてしまうような人は少なく、むしろ、「やっぱりそうだよね・・・」と認識されることの方が多いのです。

ですから、仮に不満や疑問を感じる人がいたとしても、その人は雰囲気的に文句を言いにくくなります。また、文句を言うことで「変なヤツ」とレッテルを貼られるリスクもあるので、今後の定年まで続くであろうサラリーマン人生を考えて、その時の不満や疑問を消去してしまうのです。

つまり、多くの日本企業では、目標達成度“以外”の非明示的で説明が難しい「要素」で社員を評価していることが多いのですが、不思議なことに、最終評価結果の妥当性が高く、多くの社員に受け入れられてしまっている奇妙な現象が起きているのです。この背景には、日本人同士の高い同質性が感覚的に共感、同感できる「言わずもがな」の幅を広げていることは言うまでもありません。このように、世界でも珍しく「究極の“勘”」によるマネジメントが日本企業社会でうまく機能してしまうことが、目標管理の機能に障害を与えてしまう皮肉な結果を生んでしまうのです。

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